拝啓・空き缶だらけの部屋より【BGM:youtuberの雑談】
人間が好きだし万人が嫌いだ。
物心ついたころには既にそういう生き物だった。
幼いころの私は母に、「どうしてみんなと同じにできないの」と心に大きな黒い穴をあけられたわけだが、その時点で既に他人には興味がなかった。
否、興味はあった。期待するのを諦めていただけだ。
高校入学からつい最近まで、私は母の期待に応えるべく必死に生きてきた。
そうしなければ母に金(仕送り)という愛を与えられなくなる、もっと生きづらくなると思っていたからだ。
母の望む理想の、”ふつうの”娘。
年相応にかっこいい男の子を愛し、性欲を抱き、苦痛に喘ぎながら串刺しにされてそれでも幸福だと笑う少女。
いつかお母さんに孫を見せたいとはにかむ少女。
20代になりたてのうら若き乙女は皆、一枚皮を剥げば抱かれることを望み、男に性的対象とされることを望み、いずれは子を宿して母になることを望むのだ。それが「みんなと同じ」になる絶対条件なのだ。
私は最近まで本気でそう信じていた。
最終的にはフェミニズムに通ずるはずのラカン派精神分析学を学んでいる同期ですら、脂ぎった女くささを恥もせずむしろ異性に性的欲求を抱けない私を詰るのだ。私は彼女らの赤裸々な性体験を聞くたびに、悔しさや恥ずかしさや薄気味悪さで涙と吐き気がこみ上げる地獄に居た。
私なりに、出会い系アプリに登録したり、飲み屋で知り合った男と数回デートしてみたりと努力はしたのだ。しかし、実際に会って食事したり映画を見たりその先を求められるような視線を送られる度、嫌悪感で顔が引きつった。実際に吐いたりもした。
私が男と出会う「努力」をしたのは、寂しさも性欲も関係なく、母の、世間の望む「若い娘」であろうとしたからだ。
「若い娘」は性に貪欲であるべき。多少は「遊ぶ」べき。
そのような世間の無言の圧が、私の肺を圧迫した。
『ゲイの方のセックスを見るのが好きなんです』
『そこに私が居ないから、心が落ち着くというか』
西日射し込むワンルームで、先生は興味深そうに頷いた。
『ああ、この人たちは私の代わりに”セックス”や”恋愛”をしてくれているんだな、と思って』
『男女はダメです。女の方を見て、ああ、私もこの身体で生まれたからにはこういう”女”にならなきゃいけなかったのに、と哀しくなるから』
ボーイズラブを研究していると、所詮はモテない女の自己投影が拗れた形だろうという邪推にしばしば出会う。
あまりにも男本位の読み方で笑ってしまうほど稚拙な発想だ。
現実にセックス(=”女”又は”男”を求められること)に嫌悪感や違和感を抱き、BLに出会った者でなければ理解し得ない感覚があることを彼らは認知できないのだろう。
BLには、ジェンダーロールは存在しない。
同一の性で生活と性活が営まれており、彼らの関係性は揺らがない完璧な他人同士の”関係性”の形であり、そこには男や女といった厳格で分かりやすい性別は存在しないのだ。
更に、私のような”女”の身体を持つが”女”自意識の無い人間にとってBLは、自分が同一化も含めて一切介入しない形で、自分の身代わりに誰かが性愛関係になってくれるという覗き見の悦と解放が前提にあるコンテンツだ。
”女”という身体はただその身体を持っているというだけでシンパシーを否が応でも感じてしまう機能がある。BLは受けも攻めも男の身体を前提とすることによって(女体化も含め)女シンパシーを断ち切った空想へ潜り込むことを可能にしてくれる。
自らのジェンダーに関係なく、万人に性欲はあるだろう。
しかし、その満たし方は本来ならば人の数だけ、セクシャリティの数だけ存在し、それが噛み合う確率は著しく低いと考えられる。
だからこそ、私たちは動物の繁殖を目的とした性行為を模倣し、”つがい”の発想から男と女という二つの安直な性を生み出した。人類の繁栄という、何の意味もない動機のために。
人類・国の繁栄と、高度で複雑な快楽回路を持つ一人間の幸福とは、本来比べるまでもなく後者が優先されるべきではなかろうか。
私たちは幸福のために生きている。
とすれば、私の、「人間が好きだし万人が嫌い」「”女”としてするセックスが嫌い」「酒飲んでBL書いて読んでる時が一番幸せ」が推奨されない方がおかしいのだ。
”男”や”女”などと安直な繁殖行為のためのSEXに惑わされる人間がおかしいのだ。
人を愛せなくてもいい。人を愛さなくてもいい。
ただ、私と、これを読んでいるあなたが少しでも健やかで幸福であればそれがなによりいいと、私は思う。
拝啓、缶ビールの空き缶だらけの部屋より。