生存戦略☆生き抜けしばたちゃん

酔いどれ大天使しばたちゃんの自由帳

酔いどれ大天使しばたちゃんの取扱説明書:未推敲

はじめに。
これは私の遺書かもしれません。

 

 

 

今までで3回、自殺未遂をしました。

一度目は刺殺。
意識を保っていると自分を罵ることしかできなかったため、少しでもそこから逃れたくて一日眠り続け、起きたら買いだめしてあった瓶のお酒を酔い潰れるまで一本飲み干し、また眠る。起きたら飲む。その繰り返しでした。
当時、私は私の幼稚で身勝手な言動で大事に思っていた友人を酷く傷つけてしまい、「あなたの言葉に刺殺された」とまで言わせてしまいました。
〈刺殺〉というワードがひどく印象に残り、私は贖うために自分を刺すことを決意しました。
当時学生寮に住んでいた私は、深夜、キッチンから包丁を持ち出し、唯一リノリウムの床があった自室のトイレの便器の前に蹲り、包丁を握りしめていました。
痛みが恐ろしかったので、市販の鎮痛剤を買いためてウイスキーで全部飲み干し、包丁を自分に向けました。
2時を回っても踏ん切りがつかず、お尻から爪先が冷え切り凍えるほど何時間も座り続けていました。
結局、当時相談をしていた元高校教師に電話で諭され、その日は夜が明けたら心療内科を受診することを約束し、死ぬことができませんでした。

以降、私は現在に至るまで、2年以上心療内科へ通院しています。

大学まで通わせてもらえましたし、褒められたこともあっただろうし、愛情の全くない家庭ではなかったとは思いますが、私はずっと両親が恐ろしかったです。

保育園の頃から「泣いて解決するならいつまでも泣いていればいい」と言われ涙を家族に、特に母や祖母に見せることを禁じられていましたし、高校生の時過呼吸で倒れた私を迎えに来た母に、「なんでそんなに心が弱いの」と冷たく突き放されたこともあり、本当は心の病を患っていることを自認しながら、自殺未遂と弱度のアルコール依存症を患ってカウンセラーの先生から親を呼び出すことを勧められるまで、私は自分の「辛さ」「弱さ」を家族に打ち明けることができませんでした。

認知行動療法により、母や父は自身の教育方針が私の今の病を生み出したことを理解したようで、「わたしが間違っていたのね、ごめんね」と、小2の頃に無実の罪で嘘つきはうちの子ではないと詰られ丸3日口をきいてもらえなかったことや、中学生になり、母の都合が悪くなると無視してやり過ごそうとする態度に対して意見したら勉強中に部屋にきて怒鳴り込まれたこと、小学校高学年で通っていた塾の模試でとった国語全国1位の成績表をなんの労いもなくゴミ箱に捨てられたこと、誕生日を忘れられたことなどを謝罪したつもりになったらしいですが、私自身の傷は全く癒えませんでした。

 

二回目の自殺は服薬です。

初めてできた彼女に浮かれていたのですが、仕事第一の社畜であったため告白してから一度も会うことは無く、金曜の深夜に電話がかかってきて「私の奴隷になりきれないなら別れてくれ」「お前のことなんか少しも好きではない」「居るだけで迷惑」「メンヘラはそれだけで社会が優しくしてくれるからいいよね」という旨のことを2時間以上言われ、一度のデートもなく別れることに関しても辛かったですが、「私もメンヘラ(笑)になって縋ったりできるような強さ欲しかったわ(笑)」と言われた言葉が酷く突き刺さり、死にたくなりました。

リストカットの跡を見せたり、ODする薬の量をSNSにアップロードするメンヘラ界隈なるものが存在していることは知っていますし、そこにナルシシズムやかまってちゃん的な要素、「どうせ死ぬ気などないくせに」という苛立ちを感じる方が少なくないことも理解しています。
しかし、私は本当にこの服薬しなければ電車にも乗れない状況を抜け出したいし、彼女には精神的な不安定を理由に負担をかけないように細心の注意を払って「普通の」恋人のように接していたので、いくら当人が仕事の邪魔になるからと私と別れたかったにしても、精神疾患を詰られ皮肉られたことは本当につらかったです。

「私のような不適合者は、マトモな人間として扱ってもらえないんだ」
「当然か、だって世間的に〈メンヘラ〉は迷惑なのだから」

一度目の未遂以降半年以上通って使わなかった分の安定剤・眠剤計50錠ほどが手元にあったので、半分以上残った麦焼酎の瓶を傾けて酒と薬の両方がなくなるまで飲み続け、70時間ほど自室で気絶していました。

 

三度目の未遂は絞殺です。国立にストレートで入れるくらいの知能は奇跡的にあったので、メンヘラではありますが何か社会の役に立てるのではないかと3年冬当たりから、手あたり次第応募しましたが、6月を過ぎても全く決まらず、私はただの社会のお荷物なのだと感じ、せめて税金を食いつぶさないうちに死のうと、家にあったビニールひもを小さめの輪っかにしてドアの向こう側のノブに引っ掛け、もう片方の大きめの輪に頭を通しました。
結果、紐が切れてしまいただただ吐き散らかしただけで終わりました。

 

 

そもそも、なぜこんなにも私が生きづらいかというと、それは皆さんとプログラミング言語が異なるからだと思います。

今、言語学に興味があるのですが、ソシュールの解説として丸山桂三郎氏の著書『言葉と無意識(1987)』において、このような一文があります。

異なった心情的態度の多様なあり方を一つに集めて概念とするのは、日本語の場合であれば、「愛」とう言葉があってはじめて可能となるのではなかったか。そして、対象や意味の自己同一性があるために反復可能性が生ずるのではなく、語の反復可能性故に対象や意味の自己同一性が錯視されるのである。

 つまり、「愛」の内訳は人それぞれであるにもかかわらず、「愛」という言葉が存在することによって、あたかも「愛」という語の表現する感情の内訳がその語を用いる全ての人に共通するものであると錯覚され、その過程をすっとばして、「愛」は人類が一様に持っている概念なんだ!と認識されてしまっている、ということだ。

 

大学の必修授業で取り上げられたこのソシュールの概念を、教授は虹に例えました。
日本では虹は7色に見えるけど、ある部族では3色、ドイツでは5色に表される。

感じ方や要素は違うのに、「虹」という言葉が何度も使える、反復可能性を持っているがために、私たちは「虹」=「万人に共通する虹という存在が確実にある」と錯覚する、と。

 

この悪しき共通概念の幻想に、私はおそらく保育園の頃から疑問を感じていた。

現在の日本の”全体主義”の考え方は、同じ言葉で表現されるけどもその内訳は一人一人異なるのだ、ということをハナから無視している。


「異性同士が付き合うものだ」「学びたいことがなくても大学に行くべきだ」「とりあえず大手企業に入るべきだ」「一定の年齢になったら恋愛して、就職して、結婚するのだ」

 

だいたい普通はこう、という用意されたレールを、大抵の人間は何の疑問もなく突き進んでいく。

それが本当に自分のやりたいことか、すべきことかを自分に向き合って考えること。飲み込まされている思想、テレビのコメンテーターの発言の正否を問うこと。

幼少期から感じてきたことだが、この世の殆どの人は日本全体がなんとなく共有している「なんとなくの正しさ」を抵抗なく受け入れている。それが自分に合っているかどうかは別として。

 

思考停止は確かに楽なのだ。
みんなそうだから。結論の無いことを考えるのは苦痛だから。感じること、思考することそれ自体が辛くてたまらないから。
バカのふりをして、「考え込まなくても人生生きていけるっしょ」と不感症を肯定してて生きていけるのだ。

 

私にはそれがどうにもできなかった。

中学で学級委員キャラとしてウザがられ、それがいやで高校一年でクラスで人気がある子の言動を学び、ガワを作って無理矢理その型に自分を押し込め、明るく面白く楽しい演劇部員の学級委員としての人工的な思考停止の私を必死に作り出した。

ガワと自分自身の乖離に苦しみ、しょっちゅう過呼吸で倒れたりトイレで吐いたりしながら、それでもみんなみたいになりたかった。溶け込みたかった。
胸中でずっと、まだ4歳のころに無表情の母に言われた、「どうしてみんなと同じようにできないの」という言葉がずっと溶けない氷として胸中にあった。

 

 

みんなと違うことが心の底から恐ろしかった。みんなの言っている言葉の意味が、思想が理解できなくて、恐ろしくて泣きだしそうだった。
繕った私のガワを好いてくれる人が沢山いたのに、私は彼女たちの思想に共感してあげることができなかった。

 

なぜなら、生まれてこの方、私にとっての虹は7色以上の色彩をもっていたからです。
世間で当たり前とされている「前提条件」事態は存在せず、世界は言葉では表現しつくせないほど多彩な色彩でそこにあり、例え同一の言葉、例えば「愛」として表現されたとしても、その内訳は各個人にとって全く違う要素が入り込んでくるものだと、幼少のころから認識していたからです。

 

私は怖かった。

みんなの言う「当たり前」の概念が少しも「当たり前」に思えないことが。

私が思ったことを素直に発言しただけで、両親にも友だちにも、「しばたちゃんは頭がいいから」と呆れたように、理解することを諦められ疎外されることが。

まるで化け物の扱いだと思いました。
いろんなことを考え、感じ、学び、行動した結果「理解できない」と切り捨てられる恐怖。

 

 

私はおかしいのでしょうか。
生まれたときから日本の、みんなの「当たり前」を認識する器官の欠けた、怪物なのでしょうか。

私は、生きていいんでしょうか。

 

正直、もう意識を保ち続けることが恐ろしいです。
読みたい本はたくさんあります。やってみたいこと、食べたいもの、話したいことは沢山あります。

でも、意識を保つ=誰にも理解してもらえない感情を持ち続けることが、辛くてたまりません。

 

 

今、Twitterで皆さんから励ましのメッセージを沢山貰ってます。
有難いです。

しかし、プログラミング言語の違う私とあなたとの言葉のやり取りは、あなたが私に伝えようとしてくれている思いの殆どをそぎ落としてしまいます。
虹が7色に見える私に、虹が5色にしか見えないあなたからのメッセージは上手く読むことができないのです。

 

 

沢山の方に心配をかけ、両親にも金銭的にも大きな負担をかけ、本当に生き続けること、意識を保ち続けることが心から申し訳ないと思っています。

それでも、まだ生きていたい。できれば宇宙人のような私でも愛してくれるような人に出会いたいし、恋もしてみたい。

将来への希望もないし、周囲の皆さんに貢献することもできない頭のおかしい私が、孤独に耐えながら明日を生きていいのでしょうか。

 

 

死ぬ勇気がありません。

でも、次、今だ、と思ったら、必ず死ねる方法を選びたいと思います。

生きててごめんなさい。

 

 

 

2018.7.16      酔いどれ大天使しばたちゃん