生存戦略☆生き抜けしばたちゃん

酔いどれ大天使しばたちゃんの自由帳

「楽しい」は息継ぎ

 

この2日でひと夏の楽しいが全て過ぎ去ったくらいには充実した土日だった。

人の「休む」には「”静”の休む」と「”動”の休む」のふたつがあって、その両者を満たすと心身ともに十分に休まるのだそうだが、なんと今週末はこのふたつの「休む」を土曜日と日曜日にそれぞれ経験してしまった。

 

土曜日は気心の知れた旧友と田舎の岩盤浴のあるスーパー銭湯で汗を流し、日曜日は今もっともお金を使っているソシャゲのキャラクターの3Dライブに行ってきた。


心を空っぽにして汗をかき、何も気を使わない下ネタを連発してだらけた土曜と、ひと月前からストーリーを読み返して準備し、衝撃と感動、「もういっそ会場に行きたくない」と思ってしまうほどの享楽を味わったこの2日。両日ともに日の未だ高いうちから酒を飲みのみはしゃぎまわって、引きこもりの私からすれば驚くほどに充実した休日だった。

 

さて。ライブが楽しかった話や推しキャラクターの話ははまた別の機会に書くとして、今日は「心休まる時があることが生きるモチベーションにはならない」という話をしたいと思う。

今現在、以降何の予定もなくなる8/18にまた未遂でもしてみようかな♪、と思い身辺整理を始めているのだが、それにかこつけてSNSを通じて私という人間に対しどんな言葉が送られてくるのかと思い、SNSを通じて匿名で「ラブレター」を受け付けている。

2年以上心療内科に通院しており、未遂は3回、うつ状態で長文ツイートを連投するメンヘラクソ女だけあって、送られてくる内容は「死なないで」「次会ったときは~」など希死を避けるように促してくれるものが少なくない。

 

誤解されているようなのではっきり言っておくと、別に死ぬつもりはない。
プログラミング言語や根幹の思想に決定的なズレがありどうにも私の言い表せない生への欲動を流血という形で体現して感じてほしい、という望みと、「人肌のぬるま湯の中でゆっくり死んでいく母体回帰的な体験をしてみたいなあ」というぼんやりした興味だけである。もちろん希死念慮はずうっとあるので自殺したい説も否定はできないが。

 

話を戻そう。

彼らも主治医も、私が「今日はこんな風に楽しかった!」と報告すると、きまって心底安心した顔で「ほらね、生きてるといいことあるでしょ。前向きに生きてみようよ」と促してくる。

私はこれに違和感がある。

「楽しい」があることは、生きるモチベーションにはつながらない。
大方の人は気が付いていると思うが、不幸なことがあった後に幸せが訪れたとしても、それはひとつひとつ別の問題であり、不幸の埋め合わせとして幸せが降ってわいたわけではない。ただ不幸なことがあった後に、幸せなことが起きただけだ。

 

投薬治療を2年、カウンセリングも2年続け、生きてきた道を振り返ったところ、私は物心ついた時点で足の裏に釘が刺さった状態でここまで歩いてきたことがわかった。
地球人の両親や友人たちの中に、突然現れた火星人のような私は、人よりも感受性が強すぎ、言葉に過敏すぎ、生きるのがつらすぎた。

私を見つめている方には、例えば私がステキな恋人と巡り合って救われ、いつまでも幸せに暮らすおとぎ話的ストーリーか、カウンセリングを通して自分を見つけ、あなたがそれは幸福だと認められる範囲内で私が生に意味や喜びを見出していくストーリーをご所望なのだろう。

勘違いしないでほしい。

私は将来の大きな幸福を条件に生きづらい人間に生まれたわけではない。

 

「楽しい」経験は常に水底に沈んでいる私が息継ぎをする瞬間なのだ。
なんとか生きながらえるために「楽しい」が必要なのであって、「楽しい」ことがあるから生きてる訳じゃない。

だから、例えば私が死んだとしても、「もっと楽しいことがこの子にはあったのに」などと勝手に私になったつもりで精液の代わりの涙を発射するのはよしていただきたい。