生存戦略☆生き抜けしばたちゃん

酔いどれ大天使しばたちゃんの自由帳

フー・アム・アイ

「フー・アム・アイ」と歌いだすのは、パンを盗んだ罪による獄中の運命から、別人の名を騙ることで逃れようとした『レ・ミゼラブル』の主人公、ジャンバルジャンだ。
私とは誰か、私とは何者か。
顔も知らぬ他人に罪を擦り付けたなら市長として生きていく道が開けたにもかかわらず、罪の意識から自ら名乗り出て罪人として追われる人生を選んだジャンバルジャン

高校生の時、初めて生で見たジャンバルジャンの葛藤は、長年焦がれてきた異性に見向きもされなかったエポニーヌの深い哀しみよりも理解しがたいものだった。

しかし、「私は今、男でも女でもない」との宣告を受けた私にとって「フー・アム・アイ」という問いは、実に身近な、ともするとまた自らを奈落に突き落としかねない悪魔の問い、答えなき問いとして襲い掛かってくるのである。



私は、接触による快感を得ることが恐ろしい。
男女問わず、欲望を持って身体触れられた瞬間に、視界がチカチカと白く点滅して強い嫌悪感と吐き気に襲われる。
それは胃が縄になりそうなくらいに引き絞られ、脳が揺れ、涙が溢れるとても恐ろしい衝撃だ。
これは明らかに私のヒステリーであり、他者に理解されることが殆どない感覚ではないかと思う。
私は他者と性交に及ぶたび、高圧電流を身体に流されるような苦痛を味わう。
性交における絶頂を「小さな死」と例えた哲学者が居たが、私にとって世間の言う「感じる」という快感回路は、まさに臨死に直結する恐ろしい機能なのである。

よって私は、他者と性的接触、所謂セックスをすることができない。

更に思考を整理していくと、私は現代日本における「女」に同化することが大変困難な生き物だ。
2018年現在の日本において、「女」とは男性に肉体を性的対象とされる存在のことである。
その身体に受胎の機能があるかどうかは別として、(お互いがどんな関係性であれ)男に欲情される肉体を持つものが「女」として認められる。
この前提に立つと、私は欲情(のその先を含め)されることを嫌悪しており、また自らが快感を得ることを望まないからこそ、対象(同性)に対しても欲情できないという「欠陥」を抱えていることになる。

「女」にもなれず、かといって男ではない私は、一体何者なのであろうか。
欲情を感じずとも食事をし、排泄して睡眠をとれば生きてゆくことはできるが、果たして他者への欲望回路が断絶した人間は幸福になり得るのだろうか。
通院はまだまだ長引きそうだ。