生存戦略☆生き抜けしばたちゃん

酔いどれ大天使しばたちゃんの自由帳

死ぬことを我慢する必要って果たしてあるんだろうか

 

自分の生を精一杯侮辱する方法としての生きる、と言葉で遊んで勇気が湧きそうなことを思いついてみるも、虚しい

 

こんな文ならかけるのに、意味のある実のある卒論はかけない

 

このブログを再稼働させようと思ったのは、分析家の先生から教わった二階堂奥歯さんの八本脚の蝶を知ったからです

 

のたうちまわって幸せになれないクソダサい私は、カッコよくなるためにやはり死ぬしかないのでしょうか

 

誰かが必死に生に抱きとめてくれれば私は死なずに済む気もするけど、なんだかその人の腕を汚すようで申し訳なくて、大事にしてくれそうな人から全速力で逃げ回ってます

 

私の身体じゃなくて、みてくれとかじゃなくて、もっと精神を必死に抱きとめて貰えませんか

 

労力使うと思うので、ローンか死亡保険で補償しますから

 

いやそれだとどっちにしろ死ななきゃだな

 

とりあえず、今日は大丈夫そう

 

ホットミルク飲んで、ちょっと卒論書いて、寝ます

 

明日なら頑張れるかもしれないと、まだ思えてるので

元旦早々クソ女です

元旦早々愛されたいという欲が出てきてしまい、不安で不安で卒論進まなくてODに逃げそうになってます。

でも実家なのでしません。

 

原宿で自動車が人混みに突っ込んだそうです。

もちろん死んだのは私ではなくて、でも見た瞬間にえずきました。

 

いつなら死ねるか、予定見なきゃですね。

薬も用意しなきゃ。

でも卒論だけは書き上げときたい。

どんなにクソでもクズでも。

しばたちゃんの懺悔

書いてるうちに年を越すかもしれない。

今年のケガレ、今年のうちにということで、ここ一週間で酒を飲みすぎてやっちまったことを簡潔に述べたいと思います。

 

彼氏のいる後輩の男の子の息子さんを口で射精させました。

 

いやもうこれに関しては本当に何の弁明もないくらい酷かった。
全国の彼女様本当にすみません。

ただの好奇心です。

これについて来年からは色々考察していこうと思いますので、しばたちゃんが男性器に出会ったよということだけ取り急ぎ報告させていただきます。

皆さま、よい年をお迎えください。

フー・アム・アイ

「フー・アム・アイ」と歌いだすのは、パンを盗んだ罪による獄中の運命から、別人の名を騙ることで逃れようとした『レ・ミゼラブル』の主人公、ジャンバルジャンだ。
私とは誰か、私とは何者か。
顔も知らぬ他人に罪を擦り付けたなら市長として生きていく道が開けたにもかかわらず、罪の意識から自ら名乗り出て罪人として追われる人生を選んだジャンバルジャン

高校生の時、初めて生で見たジャンバルジャンの葛藤は、長年焦がれてきた異性に見向きもされなかったエポニーヌの深い哀しみよりも理解しがたいものだった。

しかし、「私は今、男でも女でもない」との宣告を受けた私にとって「フー・アム・アイ」という問いは、実に身近な、ともするとまた自らを奈落に突き落としかねない悪魔の問い、答えなき問いとして襲い掛かってくるのである。



私は、接触による快感を得ることが恐ろしい。
男女問わず、欲望を持って身体触れられた瞬間に、視界がチカチカと白く点滅して強い嫌悪感と吐き気に襲われる。
それは胃が縄になりそうなくらいに引き絞られ、脳が揺れ、涙が溢れるとても恐ろしい衝撃だ。
これは明らかに私のヒステリーであり、他者に理解されることが殆どない感覚ではないかと思う。
私は他者と性交に及ぶたび、高圧電流を身体に流されるような苦痛を味わう。
性交における絶頂を「小さな死」と例えた哲学者が居たが、私にとって世間の言う「感じる」という快感回路は、まさに臨死に直結する恐ろしい機能なのである。

よって私は、他者と性的接触、所謂セックスをすることができない。

更に思考を整理していくと、私は現代日本における「女」に同化することが大変困難な生き物だ。
2018年現在の日本において、「女」とは男性に肉体を性的対象とされる存在のことである。
その身体に受胎の機能があるかどうかは別として、(お互いがどんな関係性であれ)男に欲情される肉体を持つものが「女」として認められる。
この前提に立つと、私は欲情(のその先を含め)されることを嫌悪しており、また自らが快感を得ることを望まないからこそ、対象(同性)に対しても欲情できないという「欠陥」を抱えていることになる。

「女」にもなれず、かといって男ではない私は、一体何者なのであろうか。
欲情を感じずとも食事をし、排泄して睡眠をとれば生きてゆくことはできるが、果たして他者への欲望回路が断絶した人間は幸福になり得るのだろうか。
通院はまだまだ長引きそうだ。

拝啓・空き缶だらけの部屋より【BGM:youtuberの雑談】

人間が好きだし万人が嫌いだ。

物心ついたころには既にそういう生き物だった。
幼いころの私は母に、「どうしてみんなと同じにできないの」と心に大きな黒い穴をあけられたわけだが、その時点で既に他人には興味がなかった。

否、興味はあった。期待するのを諦めていただけだ。

高校入学からつい最近まで、私は母の期待に応えるべく必死に生きてきた。
そうしなければ母に金(仕送り)という愛を与えられなくなる、もっと生きづらくなると思っていたからだ。

母の望む理想の、”ふつうの”娘。

年相応にかっこいい男の子を愛し、性欲を抱き、苦痛に喘ぎながら串刺しにされてそれでも幸福だと笑う少女。

いつかお母さんに孫を見せたいとはにかむ少女。

20代になりたてのうら若き乙女は皆、一枚皮を剥げば抱かれることを望み、男に性的対象とされることを望み、いずれは子を宿して母になることを望むのだ。それが「みんなと同じ」になる絶対条件なのだ。

 

私は最近まで本気でそう信じていた。

 

最終的にはフェミニズムに通ずるはずのラカン精神分析学を学んでいる同期ですら、脂ぎった女くささを恥もせずむしろ異性に性的欲求を抱けない私を詰るのだ。私は彼女らの赤裸々な性体験を聞くたびに、悔しさや恥ずかしさや薄気味悪さで涙と吐き気がこみ上げる地獄に居た。

私なりに、出会い系アプリに登録したり、飲み屋で知り合った男と数回デートしてみたりと努力はしたのだ。しかし、実際に会って食事したり映画を見たりその先を求められるような視線を送られる度、嫌悪感で顔が引きつった。実際に吐いたりもした。

 

私が男と出会う「努力」をしたのは、寂しさも性欲も関係なく、母の、世間の望む「若い娘」であろうとしたからだ。

「若い娘」は性に貪欲であるべき。多少は「遊ぶ」べき。

そのような世間の無言の圧が、私の肺を圧迫した。

 

 

 

 

『ゲイの方のセックスを見るのが好きなんです』

『そこに私が居ないから、心が落ち着くというか』

 

西日射し込むワンルームで、先生は興味深そうに頷いた。

 

『ああ、この人たちは私の代わりに”セックス”や”恋愛”をしてくれているんだな、と思って』

『男女はダメです。女の方を見て、ああ、私もこの身体で生まれたからにはこういう”女”にならなきゃいけなかったのに、と哀しくなるから』

 

 

 

ボーイズラブを研究していると、所詮はモテない女の自己投影が拗れた形だろうという邪推にしばしば出会う。

あまりにも男本位の読み方で笑ってしまうほど稚拙な発想だ。
現実にセックス(=”女”又は”男”を求められること)に嫌悪感や違和感を抱き、BLに出会った者でなければ理解し得ない感覚があることを彼らは認知できないのだろう。

 

BLには、ジェンダーロールは存在しない。
同一の性で生活と性活が営まれており、彼らの関係性は揺らがない完璧な他人同士の”関係性”の形であり、そこには男や女といった厳格で分かりやすい性別は存在しないのだ。

 

更に、私のような”女”の身体を持つが”女”自意識の無い人間にとってBLは、自分が同一化も含めて一切介入しない形で、自分の身代わりに誰かが性愛関係になってくれるという覗き見の悦と解放が前提にあるコンテンツだ。

”女”という身体はただその身体を持っているというだけでシンパシーを否が応でも感じてしまう機能がある。BLは受けも攻めも男の身体を前提とすることによって(女体化も含め)女シンパシーを断ち切った空想へ潜り込むことを可能にしてくれる。

 

自らのジェンダーに関係なく、万人に性欲はあるだろう。
しかし、その満たし方は本来ならば人の数だけ、セクシャリティの数だけ存在し、それが噛み合う確率は著しく低いと考えられる。

だからこそ、私たちは動物の繁殖を目的とした性行為を模倣し、”つがい”の発想から男と女という二つの安直な性を生み出した。人類の繁栄という、何の意味もない動機のために。

人類・国の繁栄と、高度で複雑な快楽回路を持つ一人間の幸福とは、本来比べるまでもなく後者が優先されるべきではなかろうか。

私たちは幸福のために生きている。

とすれば、私の、「人間が好きだし万人が嫌い」「”女”としてするセックスが嫌い」「酒飲んでBL書いて読んでる時が一番幸せ」が推奨されない方がおかしいのだ。

”男”や”女”などと安直な繁殖行為のためのSEXに惑わされる人間がおかしいのだ。

 

 

人を愛せなくてもいい。人を愛さなくてもいい。

ただ、私と、これを読んでいるあなたが少しでも健やかで幸福であればそれがなによりいいと、私は思う。

 

拝啓、缶ビールの空き缶だらけの部屋より。

生き返し

今月の18日にお腹を刺します、と話したら分析家のO先生は好物を目の前に突き出された猫の眼で「そうですか」と笑った。

SNS上で、自分でメッセージを募集したくせに「死なないでほしい」という旨のコメントに勝手に辟易した私にとって、これ以上安心する反応は無かった。

好きにしたらいい。あなたが生存に苦しんでいることは重々伝わってくるから。

そのように私の苦しみ、生きづらさが受け止められてとても嬉しかった。

 

それは、小学校低学年から人生の半分以上をつかず離れずの距離で共にしている地元の親友Mも同じだった。
昼の仕事の倍を時給で貰う代わりに、華やかで派手な化粧をし無理に「女」役に徹して稼ぐ仕事をしていると、飲んだ酒の分だけ終電を待つ虚しさが強くなる。
酒と小便と一日を乗り越えた社会人のツンとした汗のにおい、同業の女性のキツイ香水の匂いが鼻をつくホームで電車を待ちながら、「死にたいんだよね。どう思う?」とMに数カ月ぶりにLINEをした。

Mは、すぐに返信をくれた。

「しばたが死にたいのはわかるし、苦しいのもわかる。好きにしなよ」

慰めも、止めもしない彼女の言葉に、きっちり終電の2本前に滑り込んできた私鉄に乗りながら嗚咽が漏れた。歯を食いしばって黒い涙が流れるのを耐えたら、ビール臭いゲップが漏れた。

 

 

その夜、夢を見た。

 

私は、一軒家である実家の、8畳の和室の中央にあるバスタブに浸かっていた。
畳と、L字に配置された障子越しにやわらかく刺す日光の他には何もない平穏な和室。バスタブの中は生暖かく、人肌より少し熱い温度でまるで母の胎内のように安心する温かさだった。
しかし、同時に不穏さもあった。
目が悪い代わりに嗅覚の敏感な私は、その不穏の正体になんとなく気が付いていた。しかしバスタブ内の心地よさにそこから這い上がることを辞めていた。それが正しいような気もした。

不意に、Mが現れた。
はじめからそこに立っていたかのように、肩まで浸かる私の頭の右側へ、自然に姿を現した。
裸でバスタブに浸かる私は、彼女を見上げた。

「      」

Mが何事か唇を動かした。それは夢に相応しい、鼓膜を揺する音は聞こえないのに重複した意味を伝えてくる不可思議な言語だった。
覚えているのは、「大丈夫?」「今助ける」「抜くからね」の3つ。ほかにもあと2つほどの意味を含んだ多重言語だったと思うが、思い出せない。

彼女は何のためらいもなく私のバスタブの栓を引き抜いた。
そこで初めて、私が使っているバスタブの中身に気が付いた。

それらは全て、経血だった。

私は他人より視力が著しく劣るが、嗅覚だけはとてもいい。
それは、生理中の女性の独特の匂いをかぎ分け、自分が具合を悪くするほどだ。

排水溝に吸い込まれ、どこかに流れていく大量の経血。透明な粘液と、そこに溶け込むどす黒い赤、鮮やかな赤‥‥。

人が肩まで浸かれるほどの経血。一体どれほどの年月が経てばそこまでため込めるのだろう。排水溝に粘着いた赤色の最後のひと巻きが流れ込んだとき、傍らにいた親友Mはすっと姿を消した。

私は粘着いた赤に汚れた自分の裸体を見た。障子越しの陽光は明るく、私の生白い肌とまとわりついた粘液を照らした。さながら、私は母の子宮から出たての赤ん坊だった。

 

 

「その夢について、少し整理しておきましょうか」

西日の射し込むワンルーム。真正面に腰かけた低い声が私に促した。
私は、母について語った。


その和室は、両親が一軒家を立てる際、母の母親、私の祖母が一緒に住むことを想定して300万を出資してわざわざ作った部屋であり、大きな窓が東北川と真南側、一日中日が当たるようL字に配置された清潔で過ごしやすい綺麗な部屋だった。
常に障子越しに差し込むあたたかな太陽の熱に蒸されて、畳が甘く香っている部屋。その匂いは今も、生理中の女性の首筋から香り私の子宮を収縮させる、キツイ女の香りを連想させる。

実家で最も長い時間、明るい部屋。私が小学生の頃、父がまだ単身赴任をしていた頃。小学生から中学に上がるまで。私だけがシングル、母と幼い妹が同じ布団で寝かせられ、夜ごと口惜しさと哀しさに枕を濡らしたその和室。

 

一言で言うならばその和室は子宮だった。母と、その背後に立つ祖母の、「母親」を閉じ込めた金庫であった。

経血に塗れ、信頼のおける他者により這い出ることを促された夢。

私は悪夢とは思わなかった。

むしろ、これまでの悪夢から抜け出せるような淡い希望をもって目を覚ました。

 

生き返し。再生。

私は、腹を切ることをやめたことを分析医に宣言した。

 

「先生、私は無意識下で生まれなおせたのだと思います。母と、正しく決別し、新たな関係を結ぶときが来たのだと」